裾を折る

最近履いているジーンズのスソが折りっぱなしになっている。

というのも、糊付けしてみるかと洗濯のりの原液を塗りつけたところ、

あまりに硬質化し指で弾けばパンパンと小気味良く音を立てる始末。

まるでボール紙のようで、一度折ってしまったスソを戻すには一苦労だ。

加えて、これは数ヶ月に一度ほどしか洗濯せず、それも洗うときは

風呂場でジャブジャブ洗っているため、一度折ったら折りっぱなし、

履く度にズボンのスソを折り返しているわけではない。

 

そういう次第なので、自分のなかでこのジーパンは

スソが折れているのが意匠であるかのようにすっかり認識していて、

一時期流行った襟や袖が重ね着風になっているTシャツのようなものだと

感じて履いていたのだが、先日友人宅に行った折、

二度訪ねて二度ともスソのことをからかわれたので

久しぶりに自分がわざわざズボンのスソを

折り返していることを思い返したのだ。

 

ズボンのスソが折り返されているのは、一般的に言えば

わざわざ朝ズボンを履くときに折り返しているのだ。

加えて自分のジーパンは極端に長過ぎるわけでなく、折らずに履ける。

折り返さなくても良いものをわざわざ折り返しているということは

そのほうが格好が良いという明確な価値判断の元に行為に及んでいるのだ。

そのような意思表明をくるぶしのあたりから放射していたわけだ。

 

まだこのジーパンを買いたての頃は、

朝にスソを折るかどうかで悩んだこともある。

街中を歩いていて、自分のズボンのスソが折れているのが

恥ずかしく感じ、あるいは折れていないことがおかしく感じ、

物陰に隠れて日に二三度折ったり伸ばしてみたりしたことだってある。

 

しかし今、前述の通り私のズボンは折り返しっぱなしで

いつもその状態なのであって、ご容赦頂きたい。

六月

一人暮らしを始めて一年と少し経つ。

引っ越してすぐの頃は毎日毎週自転車で駆けずり回ったのだけど、

最近は余りそういうことをしなくなった。理由は別にないと思う。

ホーソン実験のような何かだ。

 

六月になり、窓から日差しがよく入ってくるようになった。

初夏の日差しや風の手触りが好きだ。その中にいると、

まるで遠い思い出の中にいるような気持ちになる。

一年中初夏の国に移り住めれば

いつも心地よく幸せな陽光を浴びられるのだろうか。

 

生きていてずっと、何をするにも余裕がない。

どんどん何をするにも上手になっていいはずなのに、

そういう気がしない。そもそも、何かを上手になること自体が

上手になって然るべきだ。そういう風になりたい。

 

 

 

考えない

htmlでweb日記を書いていたころは日に何度も更新したし、

それがmixiになってからも、日に何度も日記を書いた。

おまけに加筆修正も頻繁だった。それからtwitterがあらわれて、

まぁまた凝りもせずに今に至るまで15万も投稿している。

それでもまとまった文章を書くメディアのブログというのは

このブログが初めてで、誰だってブログぐらい持っているのに

やっと作ったのが去年だったか一昨年なのだった。

 

それでweb日記mixiみたいに何度も更新したのかというと、

最初は毎日のように書き込んでいたのだけれど、不思議と最近は

三ヶ月に一度といった頻度になることも多くなっていた。

それが糞便だろうと思考だろうと排泄は基本的に快楽なのだから、

もっと頻繁に書きたいと思っていた。

それに、友人のブログを読むのが好きだから、自分も書きたい。

 

友人が書く、ブログのような少し長めの文章というのは面白い。

なんだか思いもよらないような一面を見られるというか、

その人を知っているからといってもいつも意外な気持ちを感じる。

歌声に似ていると思う。話し声を知っていても

カラオケで歌う声を聞くとなんだか印象が違ったりはしないだろうか。

それと同じで、多少の長尺文を綴る声というのはちょっと

普段の知己の姿とは違うように感じる。

 

書かなくなった原因には心当たりがあって、それはきっと

何か特筆性のある素敵なことを書こうとか思ってしまったからだろう。

そんなものごとを日常から抽出する能力はないのだから、

メシを食って風呂に入って寝るという生活を、ただ綴ればいいのだと思う。

 

 

2014

去年一年何をしていたのだか、あまり記憶がない。

漫然とすごして、そのまますうっと、すぎていったように感じる。

ブログを読み返して思い出すには、

一人暮らしを始めたことは大きな変化の一つではある。

そんなことも思い出せないのだから、きっと色々忘れている。

というより憶えていたいようなことがないのかもしれない。

 

憶えていられるものなら憶えていたいと思ったが、

押し入れをひっくり返して過去に出会うことは

一度忘れなければ出来ないのだから、忘れるのも悪くはない。

忘れてしまったもので記録もないものは、存在しなくなってしまう。

存在しないものが存在しないことは大した問題とは思わない。

たとえば、手元に三億円ないことを嘆く気にはとくにならない。

そうおもえば、ものおぼえがわるいことも、さして深刻でない。

記憶することも記録を残すことも娯楽と

割り切ってやればいい気がする。

 

中学や高校の自分が、今の自分を見たらどう思うだろう?

モテキを年末に見返していて思った。

主人公:藤本幸世は自分の職能的な現状や将来に関しては

余り思い悩むことがない。派遣でも、フリーターでも、無職でも、

それについて悩む時は全てそれによって

セックスが出来ないことについて悩んでいる。潔い人格だ。

中高生の幸世も三十になって無職なことを気にも留めない。

まぁ、そういうことで悩むのは別の作品にまかせればよい。

もし中高生の自分に今の自分を見せたら、感激するところと

失望するところがあるだろうな。

 

 

 

掃除機を買う

掃除機を買った。

 

確か東芝製のもので、小さい、一万六千円ぐらいのものだ。

暖房と照明とMacをつけていて、ブレーカーが落ちやしないかと

思いながらプラグを突っ込んでスイッチを入れる。動いて安心する。

キャスター付きの本体からホースが伸びている形の、

昔ながらのタイプで、スティック型よりどうやら吸引力が強い。

狭小な我が家で取り回すには申し分ない。

暮らしているときは気づかないのに、いざ掃除してやろうと目を凝らすと

部屋のどまんなかに綿埃が鎮座ましましているから驚いてしまう。

この一年、フローリングモップでそれなりに不便はなかったけれど、

掃除機には掃除機の気持ちよさがあるものだ。

 

しかし誰がこの吸引機械を掃除機と呼んだのだろうか。

cleanerの和訳だろうか。まぁ、確かにこの道具は掃除しか出来ない。

片付けはやってくれない。それは間違いないが、

掃除をしているのは自分なのだし、

洗濯機が洗濯をしてくれるようには掃除をしてくれる感じはしない。

そんなわけで、大仰な名前だなお前は、と密かに思ってきた。

 

それも、安価になればこそかもしれない。

食洗機ぐらい値段が張ってかさばったらどうだろう?

よほど吸引機能をありがたがったかもしれないな。

 

 

 

 

佳恵リターンズ

いつから会ってないのか、記憶を掘り返してみて、三ヶ月を超した時点で、

え、待てよ、ひいふうみいと指で数えてしまった。

すごい、五ヶ月もあっていない。半袖短パンではとうとう会わなかった。

毎日SNSとかSkypeとか、ネットを通じて連絡を取り合っていると

週に一度ぐらいは会ってる気がするんだけど、顔を全く合わせていない。

声だけなら毎日のように聞くし、あっちが買ったTシャツのことも、

このまえ会った後輩のことも知ってるのに。なんなのか。

 

そういえば半年近くもたてばクリスマスとか、

そういうのもぼちぼち近くなってくる。

全然関心がないんだとか言って当日一人でどっかに遊びに行ってしまうくせに

安手の贈り物でもきちんと用意しておくと本当に嬉しそうにする。

そんなんで瞳孔開きっぱなしにされてもなと思うけど、

そういう表情が見たいから、結局こそこそと何か用意する。

人が何を欲しがってるのか考えるのはつらい。

全然わからないし自己嫌悪に陥ってくる。まあいいけど。

 

こうやってゆるやかにすごしていられるだろうか。

それは呪いだな

それは呪いだな、

などと一度言ってみると、妙に便利で

なんでもかんでも呪いに思えて来てしまう。

呪いとはなんぞや。何かは知らないが、個人的に会話で使う時は、

過去いずれかの決断に依拠して以後

避けがたくつきまとう払拭しがたい弊害のようなもの、を指している。

 

例を出すと、小説が映画になるというのは不思議なもので、

それまでそれそのものだったはずの小説は、

その「映画の原作」になってしまう。

もちろん映画の出来不出来や小説の知名度に由来して

主従関係はことなってくるのだろうけれど、

例えばSTAND BY MEは、きっと多くの人にとって

名作映画だと思うし「THE BODYはSTAND BY MEの原作」だろう。

小説が映画になることは楽しみなことだけれども、

本来二次創作であるコンテンツの原料のような扱いを

になってしまうのは、これは一種の呪いだな。

 

なにが、これは一種呪いだな、なんなんだか、よくわかっていない。

別にスティグマだな、でもなんでもいいのだけれど、

なんだか呪いって言ってみたくて呪いと言いたくなる。

別に呪いという言葉に限ったことではなく、

なんだか汎用性のある言葉を見つけてしまうと

変なマイブームが来てしまって何かにつけて口にしてしまう。

シド・ヴィシャスがインタヴューで答えが入り組むと

「それはFUCKだな」とか言って誤魔化していたみたいだけれど、

それと同じように、全然意味のない事を口に出しているような

そんな気持ちになる。

これは呪いだな。