名前

大学に入学したての頃、なんでだかわからないが

人の名前を覚えれば、その人を支配出来るというような

妄執にかられていた時期があり、必死に人の名前を憶えていた。

憶えようとしていたのでなく、憶えていたのだから律儀だと思う。

一日に多ければ七人の名前を憶え、頭の中で数度反復し

完全に記憶した後、目の前にその人間が現れれば

名前を呼びかけるといった具合であったのだが、

いつしかそういう情熱が去っていった時には

全ての名前が蒸発したように記憶のどこにもなかった。

 

その過渡期が悲惨で、それは例えば、顔は明らかに知っているが

名前の分からない人間に声をかけられることに始まり、

顔はなんとなく知っているのだが何処の誰だか

全く思い出せない人間に話しかけられる事で危機感を感じ、

とうとう会った記憶すらない人間に親しげに話しかけられる事で

いよいよ俺はどうにかしてしまったと感じるのだ。

 

全てが終わったあとに残ったのは、憶えようと思えば

一年や二年の間であれば幾らでも記憶することは出来るという事、

その鍵は頭の中での反芻であるという確信だけだ。

 

大体にして、一度でも会った人間の名前を律儀に憶え

少しでも見かけるたびに名前を呼びかけるというのは

きちんとこなしていくと周りから見ればただの変人になる。

頭がおかしく見えるだけでなく実際に、俺の頭は常に健常から少し悪いので

すこしおかしい奴に見えていることなど分かってはいなかった。

おかげで恥ずかしさに耐えかねた挙句寝床に引きこもる危機も

幸運にして迎えることなく、こうして生活していられるのだが

そこらへんの事情は今現在も全く変わっていない。

つまり、頭が悪いせいで自分の頭の悪さが自覚できず

そのせいで得をしている。

 

まぁ、妄執とか書いたくせに今でも気持ちはあんまかわってないのだけど

ただ、その情熱を保っていられなくなった。

本当に不器用な人なら格別、人の名前を憶えない事がまるで

自分の偉大さの象徴であるかのように振る舞う人間がいるが

今からでも人の名前を憶えればいいのにと思う。

少なくとも、ちょっとは申し訳なさそうにしたほうが

いいやつに見えるだろう。

 

いいやつに見える必要があればの話。