ライト

名も知らぬ存ぜぬ聞いたこともございませぬといった

何処の誰ともしれない人間が著した小説を

ホイホイと読む気分にはならんのだが

絵なら見た瞬間に消費してしまえるのだし、

目に見えるものというのはいかにも強く儚い。

文筆家を志す者は厳しいのう、読んで貰うのがまず難しい。

 

詩なり小説なりをわたしの作品でございと

頑張って創作せんとすることや、もしくはそうしたワナビー、

あるいはそういう経験が昔あったというような

知り合いがここ数百日で急増していて

へえ、そういうのもあるのか、と気づいたりした。

そこで、そういう人はそもそも自分が

生み出そうとする対象を消費してるのかなー、と

ちょっと思い、最初に書いたことに思い至った。

 

そもそもそういう人は、

なんで物書きになりたいと思うのだろう。

いままではなーんとなく、ある日突然どこかの若人が

自意識を物語に仮託して世に発したくなったのが

小説なのだと思っていたのだが、

冷静に考えてみるとなんかおかしな話だ。

汚れたシャツを箱に密閉して二週間ほっておくと

ネズミが発生するってぐらいおかしい。

 

大体、漫画家やデザイナーや音楽家や役者やらならば、

なんだか最初にそれを目指そうかっていう

原体験があるのが普通かなって気がするし、

それは例えば、大体なんか最初は最大公約数的なものをみて、

例えばジュラシックパークが良かったとか、

ドラゴンボールが良かったとか、そういうところから

入っていくもんだろうと想像するのだけど、

じゃ詩や小説の最大公約数的存在って何よと思っても、

あんまり本を読んで来なかったせいか、想像がつかない。

不思議な事だ。今度そういう人間に会った時に聞いてみよう。

 

 

 

言及しないっていうのは難しい。

気にしてないのだよと言えば言うほど気にしてるようだし、

そんな風には思っていないのだというほど思っているようだし。

何を言ったかより何を言わなかったかが重要とか

映画やドラマでいうと「なぁるほどぉー」とか思うけど

なんつーか巧みに自分を操作できるわけでなし

一般ピープルたる我々は単純に言及の頻度で

頭の中の重要度順位察せてしまう。

言及しないっていうのは難しい。