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もう若くない、と言うつもりはないが、もういい歳になってしまった。

なぜだか産まれてこの方ずっと、「もう◯歳なのに」と思ってきたと思う。

フィクションのなかの年齢設定を真に受けてきたのだろうか。

中学から高校に上がれば何かがあるものかと思ってみたものの

セックスもドラッグもロックンロールもない。

日頃、最大の危険といえば町田で声をかけてくる黒人の

ひんやりとした手ぐらいのもので、終わりなき日常とは甚だこの事だ。

あぁ、普通って嫌だな退屈だな、と

畢竟、普通すぎる想いを抱えて悶々としていた。

 

十二歳の頃は歴史上名だたる早熟の天才と、まだ見ぬ可能性という点では

まったく肩を並べて勝負できていたのだが、歳をとってくれば

どんどん勝負できる天才も減り、とうとう遅咲きの秀才と勝負し始め、

探す遅咲きもなかなか見つからなくなってきたところでやっと

あぁ違ったな、俺は天才じゃなかったのかもな、と思い始めるに吝かでない。

 

ところで一行目を書いてからここまで全くそんな事は書くつもりはなかったが

何行書いても本来書きたかった事に繋がる気配がないので打ち切ろうと思う。

本来書きたかったのは、もう三十歳近くにもなるのに今までずっと

文体というものを知らなかったということだ。

 

この一年ぐらい、文学を好きな知己や、本を何冊か読んだ事でそれに気づいた。

何かが著されているということについて、なにが著されているかについては

違いがあることに気づいていたのだが、どう著されているかについては

特にこれといって違いを認識していなかった。

そういう概念があることに気づいていなかった。

だってなんだか高度に抽象的な概念じゃないか、と思う。

例えばそれは人間の数を数えるのに小石を使うような、そんなことだ。

原始人なら人間は小石ではないのだから、小石を数えて

人間の数が分かるはずがない、と、そういう風に思うだろう。

つまり、今まで同じ事に対して違う書き方をしている文章を見かけたら、

それは違うことを書いている文章なのだと認識していたというわけだ。

 

当然読む方もそうなのだから、書くほうなどはもっともっとそうだ。

何が書かれているかしか頭のなかになかったので

何を書くかだけを気にして書いてきた。

どう書くかという世界に気づいてみると、それはまあ

一つの物心というやつで、三十手前で気づくことではないな、

そう思いました。ちゃんちゃん。